思い出のバスクダンス
肌寒くなり、去年の今頃はバスクダンスに熱中していたのを思い出して、写真を眺めていたらあの頃を振り返らずにはいられなくなりました。
ちなみに、このバスクダンスは私の卒論のテーマにもなろうとしています。
完全に自己満になりますが、少なくともこの記憶があるうちに、私の留学生活に沢山の経験を与えてくれたバスクダンスについて書き留めておきたいと!
自分が日本の文化としてよさこいを発信するからには、相手の文化も知りたいと思い、バスクダンスのチームをずっと探していたんです。
チームのホームページはほとんどバスク語だし、どのように検索したら出てくるのかも分からず自分のイベントが終わって落ち着くまでは中々見つけられないでいました。
イベントで、バスクダンスやりたいんだけどいい教室知らないかな?と尋ねてみたら、
探して連絡してあげる!と
その時知り合ったバスク人のゴルカが私でも入れそうなバスクダンスチームを探してくれることになりました。
2週間後、隣町にマユコが今からでも入れそうなチームがあったよ!明日レッスンがあるみたいで、見学できるけど行ってみたら?1人で行くの不安だったら僕がついて行ってあげる!とゴルカから連絡が!!
次の日、イベントぶりにゴルカと再開し
見学に付き添ってもらいました。
あとで判明したのだが、その日はゴルカの誕生日だったということ笑
バスクの人は本当にやさしいなぁ。
その日のことは今でも鮮明に覚えていて
ダンスの教室がある金曜日はいつも雨で、初めて行った日も雨でした。迷わないようにと早く待ち合わせしてきたのに、地図で何度確認しても教室に辿り着けない。
行くまでに3人に道を尋ねましたが、1人、お喋り好きなおじさんに聞いてしまったせいで時間を大幅にロス。
そのあと、偶然同じダンス教室に向かっていた親子に出会え、一緒に行くことに。
教室が山を下ったところにある日本風の古民家だったので、まさかそれだとは全く気がつきませんでした。
遅れて教室に入って行くと、先生らしき赤髪の陽気なおばさんが出てきて、貴方がバスクダンスやりたい日本人ね!!話は聞いてるわ!!と。
ゴルカが事前に説明してくれていたので話はトントン進む。
マユコ、スペイン語は大丈夫?
まあまあです…と苦笑い。
彼女は大学でスペイン語でバスク語も勉強してるので全然大丈夫ですよ!とゴルカが後押し。
全然大丈夫ではないなぁと思いながらも
まぁ踊ってしまえば関係ないから、さっそく踊りましょう!!!と先生。
初めて踊った時は基本のステップすら難しい!基本は円になって踊るのですが、しっかり頭を使ってカウントを取っていないと気づいたらみんなとは逆方向を向いていることもしばしば。
慣れてくると、軽やかにステップが踏めるようになってくるのですが、調子に乗っているといつのまにか逆方向を向いています笑
それがバスクダンス。
同じような曲調でも、曲がそれぞれ違ってステップも少しずつ違う。大体は同じステップの組み合わせで一曲が完成するので多い時は1日に4曲覚えることもありました。
大学でバスク語を勉強していたこともあり、曲中にバスク語で言われる数字や右や左などの簡単な掛け声が分かったのは嬉しかった!
私のダンスを見学していたゴルカは、見ていたら自分も踊りたくなってしまったらしく、いつの間にか一緒に踊っていました。笑
ダンス初日の最後、帰国までそのダンスチームに入れてもらうことを決意し契約をしました。契約といっても、私は2月までの短期だったので万が一怪我をした場合の保険料20€だけ払って入れてもらうことができました。
気づけば横でゴルカも入会していました。笑
その日から私のバスクダンスライフの始まり。毎週金曜日の放課後は1人で地下鉄に乗って終着地のBasauriという町まで行きました。
私がいたのは初級クラスで先生2人と初心者の女性2人、上級クラスから遊びに来ているおばあちゃん2人と私と同い年のアネ、そしてゴルカ。
アネは私と同じ日に入会して、偶然バスク大学の同じ学年ということも分かり意気投合!ダンスに行けば必ず彼女がいて、分からないことをすぐ聞ける存在は心強かった。
ある日、初級クラスのあと、先生に私とアネが残るように言われ、よく分からないまま教室にいると、そのまま上級クラスのレッスンが始まりました。
急にみんなが踊り出したのはYouTubeで見たことがあったAurreskuと呼ばれる高度なバスクダンス。細かい足のステップや、バレエのようなジャンプも含まれ、見よう見まねで踊ってみるが出来なすぎて笑うしかない私たち。
聞くと、12月末に発表会があって、上級クラスの人数が足りないから私に入ってもらうとのこと
その日から私とアネは1日に2つのレッスンを受けることになりました。
上級クラスのみなさんはすぐ私を受け入れてくれた。むしろ、こちらが不思議に思うくらい溶け込んで。
はじめて会うおじさんも、マユコーーー!と叫んで寄ってくる。突然やってきた日本人をすぐに受け入れてくれたみんなの暖かさにひたすら感謝。。
上級クラスといっても、私たちが入ったのはおばあちゃんたちのチーム。
細かなフリの違いで先生同士が言い合いになり、発表会間近に曲がどんどん難しくなるにつれてバスクおばあちゃん達の不満も募る。
練習中はいっつも口論になって
みんなが同時に喋って
ふてくされて踊らなくなるおばあちゃんもいたり。
私はいつの間にかそんなおばあちゃん達の癒しの存在になっていて
不満があると私に近寄って来て小声で愚痴ってくるおばあちゃんや、マユコは間に挟まれて困っちゃうよねー!ワッハハと気遣ってくるおばあちゃんも。
日本のおばあちゃん達とは少し違うようでも、どこか懐かしい地元のおばあちゃん達と接しているような優しいぬくもりを感じていました。
私はそんな空間が大好きで
バスクダンスとBasauriのチームが大好きでした。
たくさんのダンスを習いましたが、もっとも印象的なのはSagar dantzaと呼ばれるリンゴを両手に掲げて踊るもの!
練習の時、何故だか私がいつも列の先頭にさせられていて、自分の後ろに15人のバスクおばあちゃん達が連なっている光景もそれはまたシュール。。
これがその時録画していた写真笑笑
まさか本番で1番前はないだろうと思っていたら、本当に1番前になりました。笑
発表会の日は先生のご好意で衣装や靴も全部貸していただきました。バスクダンスの衣装を身にまとってテンションも上がり、髪型も、白いハンカチを使って先生にバスク風のお団子を作ってもらいました。
何曲か踊ったけれど、リンゴダンスは1番前で間違えることもなく本当に楽しく発表を終えました!!
私は日本人初のバスクダンサーになれた。
確証はないですが、探しても見当たらないので
そう思っています。
まるでずっと前からここにいたみたいに
見に来てくれた人達も他のメンバーも
みんなみんな優しくしてくれました。
旅行で練習に行けない日もあったが次に練習に行ったらマユコがいなくて寂しかったよー!と言ってくれる人がいて、2月に帰るというと、どうして帰らなきゃいけないの?部屋ならうちにあるよ、ご飯も作ってあげるからおいで。とまで言ってくれるおばあちゃんもいた( ; ; )。。。欲を言えばもっと前から入っていたかったし、この先もずっと続けたかった。
帰国の日が土曜日だったので、もちろん帰国前日の最後の金曜日までバスクダンスに通いました。
そして最後の日に、自分で持って行ったIkurriña(バスク国旗)にみんなからメッセージを貰いました。
最後の夜はゴルカとその友達と過ごす予定だったが、私の最後の日ということでダンスの仲間も一緒にバル巡りをすることになり。バルを数件まわり、最後の最後までなんともバスクらしい日を過ごしました。
今こうして振り返ると、私のバスクでの生活は、このコミュニティなしでは成り得なかったと思います。
そもそもイベントを開催しなければゴルカには出逢わなかっただろうし、このチームにも出会えていなかったことでしょう。
バスクに留学して、たくさんの巡り合わせを感じていて
帰りの飛行機で観てボロ泣きした映画”君の膵臓を食べたい。”にはこんな一節があった。
"「違うよ。偶然じゃない。私達は、皆自分で選んでここに来たの。君と私がクラスが一緒だったのも、あの日病院にいたのも、偶然じゃない。運命なんかでもない。君が今までした選択と、私が今までしてきた選択が、私達を会わせたの。私達は、自分の意思で出会ったんだよ」"
このセリフが本当に好きでした。
バスクでの様々な出会いは、偶然でも運命でもなく、過去に自分の意思でとった行動が目の前の出来事を作った結果なんだということ。
自分で動かなければ機会は作り出せないし、機会は自分で作り出せるのだと。
バスクで過ごした日々とその時の自分が、今の私の原動力になっています。
またみんなと会える日を願いながら、これからもひとつひとつの出会いを大切にしていきたいです。